2007年05月05日

臓器移植を哲学する

本 臓器は「商品」か
  出口 顕  講談社現代新書


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この本は、臓器移植を『哲学的』に検証しようと試みた力作です。是非ご賞味ください。




このなかで、臓器移植を受けた患者のアイデンティティについて第四章で詳しく論じておりますが、脳の移植にとどまらず、他の臓器移植ですら、人格の変化が生じてしまった例があることがいくつか紹介されています。これを【細胞記憶】と呼ぶようです。

そう言えば、最近のニュースで、女性の臓器を移植された男性が女らしくなってしまったという話がありましたね。

「科学的に細胞記憶があることを証明することが重要なのではない。それよりもむしろ提供された臓器がドナーの人格の痕跡をとどめており、移植とともにその人格が自分の中に入ってきたとレシピアントらが感じていることが重要なのである。」



現代では、臓器(身体の一部)を単なる物質とみなし、これが譲渡可能なものであり、時に売買の対象にさえなっている。


しかし、臓器移植は、一方で患者のアイデンティティの揺らぎも引き起こしている。移植された患者は、その移植された臓器を単なる物質とはとらえず、他者とみなすために、自分自身のアイデンティティに不安が生じてしまうという。


これまで、脳死や臓器移植については相当な議論が行われてきましたが、

 『臓器移植がレシピアントとドナーの遺族のアイデンティティに深刻な影響をもたらすということは、ほとんどといってよいほど論じられることはなかった。』

と、筆者は指摘しています。



臓器移植について手術以前の段階での議論は十分になされたかもしれないが、

術後の段階での議論・検証が不十分というより、皆無に近い

という指摘は興味深いものでした。






第六章では、「移植と日本文化論」として、脳死・臓器移植に対する日本人の死生観・身体観について批評しています。ここで、梅原猛さんをこきおろしているのが痛快でした。

梅原猛氏は、哲学の泰斗気取りで東京新聞にしょうもない駄文を寄稿しております。様々な出来事に対して批評していますが、
戦後日本人が依り代を無くし、新たな価値観・倫理規範を求めた時に哲学者なり宗教家が真摯に活動していれば、今日のような精神の荒廃は生じなかったのでは?
使命を果たさず、評論してばかりいる御方はね。


げっ! あろうことか、梅原さんを批判しちゃった〜。ゆ、許してくらはい




(注)この書評は、東野圭吾氏の作品の書評中に挿入してあった文ですが、独立させました。

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            未見の方はクリックしてね。





posted by 金魚 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・対談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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